「鮭さけ」と「鱒ます」、大人はもちろん小学生でも「読める」「書ける」という人は少なくないと思います。では鮭と鱒の実物の見分けはどれだけの方ができるでしょうか。また「難読漢字」として漢字検定やクイズなどに出てくる「虎杖」「満天星」を「いたどり」「どうだんつつじ」と読めても、どんな植物なのかご存じの方は多くはないでしょう。
漢字は、文字として存在しているわけではなく、その背景には、それを生んだ自然と人の営みがあります。それらを共に学ぶことを目的として、2007年3月に「漢字探検隊」はスタートしました。
「漢字と仮名があり、仮名は平仮名と片仮名の二通り、漢字も字音と字訓の両方を使います。一つの同じ漢字なのに、音読みと訓読みがあって、その最たるものは人の名前に使ってよい音読みと訓読みで、これは大変な数でしょう。漢字を使用制限する一方で、ここでは野放図な訓読みを認めている」
「地名もそうです。そうした矛盾した政策を国がやっている。文字政策、国語政策の基本ができていないのです。国語の語彙の半分は、漢字が占めていることを踏まえて、国語政策を考えないといかんのです。」
「子どもたちには覚えられる方法で体系的に与えてゆくことが肝要です。それには子どもたちが理解できる方法でないといかんのです。理解させることが覚えさせることになるのですから」
「そうしたら自分の姓や名前、住んでる地名とか近所の人の姓とか、「なんでこの形なのなぁ」とか「なんでこんな字がつかわれているのかなあ」と考えるようになります。この「なぜか?」を導き出すことが、漢字の指導でいちばん大事です。」
「子どもたちの「なぜか?」の疑問に答えられる正しい知識が先生がたをはじめ、周囲の大人たちにないと、せっかくの「なぜか」が生かされません。」「文字は孤立した記号ではない、ということを忘れないでほしい。古い時代からの世の中の有り様がそのまま、字の中にとじ込められていて、今の世に残っている。字の形の中に残っているのですから、そのような歴史的文化的流れの中で文字を理解していってほしいものです。」
漢字は1950字ほどに制限され、その半ば近くが訓読みのない字である。「おもう」は、「思」の一字だけで、思想 念願 追憶 懐古という語は用いることはできても 想・憶・懐に「おもう」という訓は与えない。これらの語をどのように説明し教えようと言うのか。
それぞれの訓を教えないで、どうして理解させようとするのか。消化されないままでただ暗記せよというのであろうか。そのような無機的な記憶が、知識となりうるのであろうか。
何よりもあてがわれただけで満足し、それ以外を余分のこととする教育が、人間を規格化することは確実である。その上一点一画の書法にまで介入するがその字形学的説明を行うことはない。しかもこれにしたがわないものは誤りとされ、学校教育から除外されるのである。一体このような規定の制作者は、漢字について果してどれだけの知識をもつ人たちなのであろう。